昭和40年11月18日 朝の御理解
今朝私は御祈念中に、こういうお知らせを頂いた。水の流れにカボチャが浮いてる。それがこうゆったりゆったり、その流れている。丁度桃太郎さんの物語ではないですけれど、川上の方から桃が、ぶっかりぶっかり流れて来たというのは、こう言う様な風で流れて来たのではなかろうかと言う様な情景、それが桃じゃなくてカボチャである。しかもこう緩やかにこう曲がった所を、水の流れに添うて流れている。
それが私が丁度それを上から眺めておるというその感じが、成程カボチャなんですけれどもね、まるきっり大きな菊の花が流れている様に感じる、かぼちゃというのはこうね、丁度菊の花の様にしてるでしょう。そして私は思うた「はあ丁度これは菊水と云う事になるなあ」と思うたんですね。菊水の紋所というのは楠木正成の紋所がそうですね。菊水菊の花がそれに水がこう流れているそういう紋所。
そう言う風にもし皆さんがお知らせを頂かれたら、その中からどう言う風なものに感じるだろうか。流れているのはかぼちゃ、けれどもそれを私が眺めている感じというのは丁度流れに菊の花が添うて流れている様に感じる。ははあこれは菊水。私共が本当に助かると云う事、私共自身が本当の意味において助かると云う事はどう云う事かと。不安のない心配のないそれでいて不安が心配がないというだけでなくて、有難うて有難うてという気持ちが段々愈々強くなると言う事が助かる。
又助かった人の姿であるとこう思うのです。願った事が成就したと云う事が助かりにはならない、願わなければおられないその事を通して、私共が不安はない心配はない、委ねた心。神様のお働きに委ねた任せきった心、しかも任せきっておれば、こう言う風におかげが、言わば夢にも思わなかったおかげに進展して開けて来る、と確信が出来る時です。いよいよその委ねさせていただけれる自分が有難い。
しかもその言われている自分、そいう心の状態におかげが限りなく伴のうて来る。愈々勿体無いと云う事だと云う事になる。ですから一つの水の流れの様なものであってその水の流れに逆らわない逆流しない、水の流れに添って流れてゆくと云う事。勿論水の流れと云う事はお恵みともいえるだろう。神様の私なら私の家にお働きかけ下さる所の自然の働きと云う事も云えるだろう。
神様が私に恵んで下さるのである。神様が自然のなかで、私に働きかけて下さるのである。その働掛けに対してです、私共が、不平をいう不足を言うと云う事は、その水の流れに逆ろうている様なもの、その自然の流れに、私共が添って流れて行くと、そこに、見易い様で難しさを感じるのである。それが自分の都合の良い事ばっかり、流れて来れば良いのであるけれども、困った事やら、びっくりする様な事やら、腹の立つ事やらが、流れて来るでしょう。
そこの所をお取次を頂いて行くのである。そこのところをどうぞ辛抱し抜かして下さいとか、これを受け抜かせて下さいとか、ここをどう通らして頂く事が、神様のお働きに逆らわない事であるかと、云う事を伺ったり願うたり、お取次を願うてお取次を頂いて行く訳なのである。それが私共がお取次を頂くと云う事がですね、その、流れて来たその逆流する、神様の流れに逆らう、神様が右に右にとこう働きかけて下さるのに神様どうぞ私を左の方にやらして下さいと云う様な願いをする。
そう言う様な事が、取り次ぎを願うと云う事ではない。願うと云う事はになるかも知れんけれども、頂くと云う事にはならない。お取次を頂くという事。右の方が良かろう様に思うけれども、自然の働きは左の方へ左の方へと、こう神様は左の方じゃとこう仰る。そこんところが「泣く泣く辛抱しいしい」と云う所ではなかろうかとこう思う。これの方がいいんだけれど、そこんところを辛抱する、そこんところを神様にお縋りして、辛抱し抜かして頂くと云う事。
そこで私はカボチャにならなければいけないと云う事。カボチャにならなければ、流れて行かれないと云う事。自分の理屈や自分の才覚でです、行こうとする所に無理がいく、いわゆる不自然な事になって来る。所謂金光様の御信心はどこまでもです、その自然に即応して行くと云う事、自然に逆らわない神様の働きに親様が、親金光様が「座っておれば楽じゃ」と仰った。三代金光様が十三の御歳に親金光様が亡くなられた。
時に「あの摂胤で勤まります御結界が、どうぞ、摂胤を御結界の、ご用に使こうて下さい」と周囲の方達に願われ、遺言された。「あれで結構勤まります。」と。それだけのいわゆるご信任を、金光様はお受けになられた。そして金光様には、どう言う風に仰っておられるかというと、ね「ただ座ておれば楽じゃ」と仰っている。所がその座るってる事が楽と仰ったけれども、決して楽ではなかった。はじめの間は、「辛うて辛うて、よう泣いた。」とこう仰る。
そうした自然の、そうした一つの働きがです、金光様の前にそう言う風に、流れ付いて来た。そこでその事を受けて立たれた訳です。楽と仰った、だから座っておったけど楽じゃなかった。辛うて辛うてよう泣いたと仰る。ここんところを私は、お互い信心辛抱が必要だと思う。そうした自然のそうした、働きを受け切ると言う事は、いかにも見易い様であるけれども、難しい。
もし金光様がこん時に利口になれたらり、賢くなられたらどうでしょう。親金光様はああ仰ったけれども、とてもまだ自分は十四か十五位のその遊びたい盛りの自分だから、ここへ座っとくだけの事は出来ん、と利口な方へ賢い方に走られたら、金光様のあのご信心は生まれなかったと私は思う。それを受け抜いておいでられた。所が、そこに不思議な働きが金光様の上に現れて来る様になった。
泣く泣く辛抱しておられてたら、第一欲しいものが無くなられた。思う事もなくなられた、所謂我情我欲というものが座っているご修行泣く泣く修行なさっておられる間に取られたと云う事。所謂本当の意味でのカボチャになり切られたと云う事。カボチャと云う事は。この辺りでは馬鹿の代名詞の様に言うでしょう「あれはボウブラの様な奴」と言うでしょう。そういう意味だとこう思うです、馬鹿んごとあるですね。
親が座っとけば楽と言うたけんと言うて、しかも何十年間辛抱したち。けれども、その中からです信心の一番大切なもの、また、頂こうとして頂けるものでない貴いものが頂ける様になられて来た。それはもう金光様の場合、もう自分はそう諦めてしもうたと言った様なものでは無かったと。それから欲しいものも無くなりゃあ思う事までも無くなると言う様なご状態というものが頂かれる様になり。
有難うて有難うて、お礼ばっかり、申し上げておられる様な状態になられ、それでいても、惟ですんだとは思わんと、言う様な心持ちがです、かくまでのおかげを頂いているにも係らず。こんな事では相済まん、有り難うて有り難うて堪らん、というその中にもです、そういうおかげに対してから、信心が出来ませんと云う事をです、神様にお詫びばかりしていますと言う様な。
もういよいよ最高の境地と申しましょうかね、人間として最高の尊い心の状態と言う物を金光様は身に着けておいでられた。惟は私共の場合でもそれを思うんです。私達信心の稽古をさして頂くと云う様な事はどう云う事を稽古さして頂くというのかと。例えば朝参りが始めの間は辛ろうて辛ろうて泣く程にと云う事ではなくても、本当に目を覚ます時起きる時にはもう本当に辛かった。
けれどもだんだんそれが有難い事になり楽しい事になりね、朝のお参りをさして頂かなければ、朝の御祈念に出らせて頂かなければ相済まんと言う様な、そういう状態にまで成って行く。しかも朝の御祈念にお参りさして頂いて、どう云う事を稽古さして頂くかと云うとです、神様の御働きの中に、何時も自分の心を心安らかに、祈り切れれる自分にならせて下さいと言う事。
一切を馬鹿と阿呆で受け抜かせて頂けれる私。私はね大きなおかげを頂くと言う事はね、そういう信心の私はそういう信心進めとり抜かなければ、大きなおかげは受けられんと思う。ただ一生懸命念力というかね、拝むというか、一生懸命お参りをするというか、断食をしたり水行をしたりと言う様な修行して神様をごうぐる様にして頂くおかげによって大きなおかげは約束されないと。
願う事が成就する事は、よりするでしょうけれどもです、もう限りない、働きと云う事には成って来ない。願った事だけが、成就するだけだとこう思う。私は正しい信心ていうのは、そういう信心を言うのだとこう思う。私共と、天地との継ながりと云う物、又は関係と云う物、私共が天地の親神様と、こうお呼び申上げれる神様と、氏子と呼び掛けて下さる、私共氏子としての、自覚と云う物がです、又その関係と云う物が、どういう関係にあるのかと。
どうぞ氏子信心しておかげ受けてくれよと切に願われておられる神様であり。「どうぞ信心して」とはどう云う事なのか。そのそう仰る神様の御心を心として受け抜いて行く事だと私は思うんです。その神様の心をです、しかもそれは一人一人違うのです。その人、その人によって、いろんな事がありましょう。性格もありましょう。その人の言わば根に応じての働きなのです。
その(?)神様のその働きをです、私共がその水の流れにそうてです、そういう一人一人の上に、流れて来る水に、私達が委ね切って、流れて行けれると云う事。大体金光様のご信心をですね、椛目で体得するのならば、ここより以外にないです。それを成り行きに従いなさい、成り行きに任せておきなさいて、成り行きを大事にして行なさいと私が云うのはそこの事だと思う。
それから、私はその菊水ではないですけれども、楠木正成的おかげになって来ると思うのです。楠の木というのは、もう楠の木太りという、なんぼうでも大きくなる木ですあの木は。ご先祖様の境内にある様な、あんな大きな大抵の木は、ああならずに、枯れたり無うなったりしますがね、楠木だけは、なんぼうでも大きくなって行きよる。いわゆる楠木太りのおかげ。
それには正しく茂って行かなければならない、正成である。正しいという信心、真の信心という、真の信心真の信心と言うけれどもどう云う事が真の信心なのか。私は自然に逆らわない自然の働きをそのまま神様の働きと頂いて、神様の働きをです合掌して受けて行く。又は元気な心で泣く泣くでもそれを辛抱し抜かせて頂く。そういう信心を真の信心ともいやあ、正しい信心とも云うのだとこう思う。
そういう信心がです、大海に打ち出す様なおかげ、所謂どこまで広いやら深いやら分からん神様のお恵みを感じさして頂ながら、又そういう大きな受け物にです限りない無尽蔵なおかげを頂かせて貰うて、人間最高の幸わせの私はおかげが許されるとこう思う。皆さん、本当の所です、ここんところを願う以外にはない。昨日一昨日でしたか竹内先生が見えとられる。丁度長男さんがお取次ぎさして頂いておる。
翌日私にその御初穂の整理をさせて頂よりましたら竹内先生のお初穂が沢山出て来た。その中にです、もう必ずお初穂に肩書きがしてある。肩にこう書いてある「給料を頂ましたこれはお礼で御座います」「これは十日の月例祭のお礼で御座います。」「これは東京へ出張さして頂ますお届けで御座います」と一つ一つ書いてあるですね。もう実意、もう実意丁寧なお方ですね。椛目の方々は見習わにゃいけんと思う。
もう本当にお取次ぎを頂き抜いておられるです。その中にこんなのがありました。「天地の成り行きを、大事に頂抜かせて頂く信心の稽古をさして下さい」という意味の事が書いてある。椛目ではもうこれ以外にないのだと。長い間私が求め続けておったのはこれだった。しかもこう言う信心をさして頂いて、それをです自分が身をもって現して行かれていると云う事が、椛目の大坪と云う事に、がその分かられた時大変な喜び様であった。諸国を行脚してでも、全国駆け巡ってでもそういう信心がもし真実あるとするならば、そこに教えを乞いたいとこう願っていたその信心が椛目にあった。
椛目にああした意味で帰依なさって、信心の稽古がああして出来ておる。椛目で信心の稽古はなにをしておるかと、万事の事にお取次を頂いて行くと云う事だけなら、どこの教会でも出来るけれども、それを身をもって現して行きよる信心というのはこれは椛目以外にはないと。天地自然の成り行き、働きというものをです、働きの中に信心を分からして頂けれる、その様な中に信心の稽古をさせて下さいと云う事。が、願いにお初穂の中にあった。皆さんも願いをです、そこに置かなければいけんのですよ。
今日の商売繁盛もよかろう。今日の万事万端のご都合お繰り合わせを願うこともありがたい。けどもそういう願いの中にです今日の一日の神様の私に対する所の働きというものをです、その働きの中に自分がこの身が委ねられる、心が任せられると、その稽古をさせて下さい。始めの間がその事が、場合によっては辛い事であろう。泣く泣く受けなければならない様な事かも知れんけれども。
そこから私は自ずと頂けるもの、それが私は「わが身は神徳の中に生かされている所の喜びを実感さして頂けれる働き、いわゆる欲しい事も、自分がああしたいこうしたいと云う様な我情も無くなる。あれが欲しいのこれが欲しいのと言う様な我欲も無くなる。愈々神様のお徳の中に神様の流れのお働きの流れの中に委ねながらね、信心が身に付いて来る。そこに言わば楠木正成的なですね。
正しく茂って行く、しかも限りなく楠木の様な大きなおかげがです頂ける、言わば確信が付いて来る。そこん処を頂く為のですお参りでもありゃ修行でもなからなければ駄目なんです。ここをねどうでも皆さんあの体得しておいでなければいけません。自然が何時も、絶えずあなた方一人一人の上にある場合には、囁き掛けて下さる、おらびかけて下さる分からん所は、痛い思いをさしてまでも分からせて下さろうとする。
神様が私共と共に生き抜いて行きたいという働きを見して下さる、これが楽しいのですよ、いわゆる神様が身じかーに感じる事が出来る。それは良い事、悪い事、痛い事ね、痒い事、気持の良い事様々にありましょう。もうそれこそ、こうひたひたと神様をここへ感じて行けれる。そういう生活でなからねば本当の信心生活だとは言えないと私は思う。今朝私はそう云う様なお知らせを頂いた。
この水の流れにかぼちゃがうっかりうっかり流れて来ておる。それを私が上から眺めておる。それが成程、流れておるのはかぼちゃなのだけれども、それが丁度大輪の菊の花が流れている様に、私の目には見えると云う様なお知らせであった。水の流れというのは神様の自然の流れであり、またはお恵みなのである。そこを、私共が馬鹿と阿呆に成り切って、かぼちゃに成り切って流れ、そこに(?)そこから生まれて来るとことの喜びを私は、菊の花の様な喜びだとこう思う。
それが場合によっては一修行しなければそれを受けられない事もあるだろう。有難く委ねきっている、だから楽な事だけは委ねるけれども、辛い事やら苦しい事やらは委ねられないと云う様な事ではですね、本当のおかげは流れ着いては来ないです。これはもう、私の信心を、言わば15年の信心を皆さんが紐解いて下さればそれが一番分かるです。私が、4年半にもう神様が下さるものは一切黙ってもう、受ける事が修行であった。
私のそして4年半に私が、受け抜かせて頂いた事がです、あの私の場合は泣く泣くと言うような事は無かったですねあの4年半には。考えて見ると大変難しい事を私はもういうなら、淡々として受けて来た感じがするです。振り返ってみて大変な事であったと思うのですけれども。そう致しましたら神様がですね、今度は私には勿体無い様な夢にも思わない様なおかげばかりが流れて来る様な感じでその後おかげを蒙っておる。
しかもこの調子で行けば、もう是だけは確信が持てる。この調子で行けば椛目はもう絶対、親の代より子の代におかげを頂いて行くなあ、この信心さえ頂いて行けば、私の信心を受けてくれるものが。受け継いでくれるならです。子供の時代になったら、ひれいが落ちたとか、孫さんの時代になったら段々細うなったと云う事はない。もう愈々大きな流れに成って行くだろうと。
それは願う事やら頼む事やら、だけで開けた椛目ではないからなんです。いうならば神様の願いの元に開けて来たのです。その、願いを私は受け止めたのです。だから、此れより外にない。椛目の信心は。どうぞひとつ、私が今日お知らせを頂きました、水の流れの中に、かぼちゃが流れて居る様な状態のです、信心を目指させて貰わなければならない。それは今日一日だけの事ではありませんけれども。
特に今日はそう云う様な気持で、今日一日を頂き抜かれておいでになり、それが明日に明後日に繋がって行く様なおかげ。信心には我が儘が一番禁物いわゆる実意を欠くと云う事が一番いけませんその中に一貫して頂くもの。それはどこまでも実意である。丁寧であり、そこを実意丁寧に頂き抜くと云う事が私はお道の信心であり、椛目ではそこんところを私が日々体験させて頂きながら皆さんにお伝えしておると、だからそれを伝えて頂いて帰って貰わなければ、いうならば椛目通いの値打ちはない。と私は思うですね。
どうぞ。